高3から浪人時代にかけて六本木の小さなショットバーでアルバイトをしていました。今は無くなってしまったようですが、鳥居坂ガーデンのすぐそばにありました。その鳥居坂ガーデンも既にありません。変わったお店でオープンが深夜の1時か2時ごろ。夜の六本木に勤めていたゲイやホステス、風俗嬢などが店がはねたあとやってくるアフター・アワーズ的な店でした。バブル前でしたが日本人の金回りが徐々によくなり店を広げていたため、私が行く時は一人で店をまかされたりもして、そういう時は思いっきりジャズを流したりしてました。その晩はお客も少なく、店にいたのはオカマとSM嬢の二人だけ。その時店で流していたのが、ラジオからエアチェックしたばかりの "Don't Explain"。客数といいBGMといい、なんとなく終了的なムードが漂っていました。
すると突然オカマ客が号泣し始めました。それも美人のオカマならともかくすさまじいオカマ。越地吹雪にあやかって「コーちゃん」と呼ばせていましたが、ワハハ本舗の梅ちゃんにクリソツ(当時梅ちゃんは出ていませんでしたけどね)。その彼女が号泣するものだから化粧が流れて正視できないほどになっているわけです。まあ、こういうことは日常茶飯事ではないにしても「わけあり」の人が多い店ではたまに見られる光景だし、そういうわけありな人が多い店なので、あまり詮索しないほうがいいとも思ったのですが、この時ばかりは少し興味も出てどうしたのか訊いてみました。すると彼女いわく、「流れている歌がなんだか哀しいの」。この曲が口紅をつけて帰ってきた彼氏(旦那)が延々言い訳をするのを制して「言い訳などしないで」と歌った歌だと説明したところ、横でやり取りを聞いていたSM嬢まで泣き出す始末。そのうち二人でなにか話し始めましたが、こういうことにあまり聞き耳を立てない、口外しないのが仁義なので、聞かないようにしていましたが、実はまったく別のことを考えていました。
それまでビリーの歌には格別興味がなかったのですが、「実はこの歌手すごいんじゃないか?」と思えてきたのです。口ぶりからおそらく、オカマのコーちゃんがビリーのことや歌詞を理解していたとは思えません。にもかかわらず何事かを伝え感動させる力。そして生意気盛りの若者として抱いていた「自分が分からないのは向こうが悪い」という認識を改め、「世の中にはまだまだ分からないことがある」という事実に思い至ったわけです。
その時流していたのが、今回紹介する「デッカのビリー・ホリデイ」です。デッカ時代のビリーは全盛時代といわれ、その声の艶は他の時代を圧倒してあまりあります。特に生涯の代表作ともなる "Lover Man", "My Man", "Don't Explain", "Solitude" などの吹き込みはジャズを飛び越えて、ボーカルの世界に屹立する名作といえます。逆に言うと、この時期ほどビリーにジャズ的興味が薄くなった時期はないのですが、バックにもリズム隊やホーン群ではなくてストリングスを従え情感豊かに歌っています。ジャズファンのみならず、音楽ファンならぜひ聞いておきたい録音です。
などと偉そうに書いていますが、私自身はこの音源持っていません。デッカ時代のベスト集で聴いているのですが、それが却ってこの全集を後回しにする理由になっていたります。そんなわけで、全曲解説することは不可能なので、特に重要な数曲について紹介するにとどめ、あとは各自聴いていただくことにしたいと思います。
まず、なんといっても外せないのが "Lover Man"。'44年10月4日のセッションで、デッカの初吹込みであると同時に彼女の名声を確立する一曲でもありました。しかし、この名状しがたい感覚は何でしょう。情熱的であるような、それでいてアンニュイであるような複雑なニュアンス。まるで彼女のために作詞・作曲され、それを出されたまま歌いこなしたかのような自然さ。ミルト・ゲイブラーがクラブ「ダウンビート」で彼女のこの歌を聴いて、「ヒット間違いなし」と吹き込ませたエピソードが間違いないと分かるほどの出来を示しています。歌詞は現実の恋人ではなくてまだ見ぬ恋人を思い続ける内容で、ちょうど "The Man I Love" に似ています。そして出だしの "I don't know why but I'm feeling so sad" という歌詞がビリーの声質とよく合っている。本当になぜだか分からないけれどピッタリなのです。
'45年8月14日(終戦の前日!)に吹き込まれた "Don't Explain" はビリー自身による作詞で、彼女にとっても思い入れの強い曲。私のような野暮天はなかなか理解できないけれど、オカマのコーちゃんが号泣したほどの感染力がある曲なんだと思います。それに比べて、私のようなものでも分かるのが '46年1月22日のセッションで吹き込まれた "Good Morning Heartache"。ストリングスの伴奏も押し付けがましくなく、この曲の世界とビリー・ホリデイの世界が一致した見事な名唱です。ビリーの伝記を書いたスチュアート・ニコルソンはこの曲をデッカの最高傑作と断言しています。
'46年12月27日のセッションで吹き込まれた "Blues Are Brewin'" は映画『ニューオリンズ』でサッチモとやった曲ですが、ここではそれとは別のメンツで吹き込んでいます。'47年2月13日吹き込みの "Solitude" はビリーの吹込みのみならず、エリントンを含めた同曲のあらゆる吹込みの中でもトップといっていいような絶唱で、同じレベルにたっているのは『ウェイ・アウト・ウェスト』のロリンズぐらいだと思えます。
'48年12月10日の吹き込みは懲役後のセッションですが、ここで聴かれる "I Loves You Porgy", "My Man" はすばらしい。彼女の "Porgy" はマイルスもお気に入りで、顔を合わせたときは必ず歌ってもらったと自伝で語っています。またこの吹き込みはデッカ録音に似合わずシンプルなバッキングが彼女の自由度を広げています。 "My Man" はコロンビア録音があるのですがテンポ設定が間違っていて、どうにもせかせかした印象に仕上がっているのに対し、ここではテンポもピッタリでピアノだけをバックにモノローグ調で「私の男はひどい奴」という内容のバースを歌い上げたあと、諦観をたたえながらそっとやさしく「でも仕方ない」とAメロに入ってくるあたりは、いつ聴いても息を呑むほどに美しい。1コーラスで終わりますが、完全にこの曲の世界を描き出しています。
デッカにおける最後の録音となる'50年3月8日の吹込みでは、コーラス入りの "God Bless the Child" が聴かれます。私としてはこのコーラスがなんだか安っぽくていやなのですが、昔NHK-FMの特集で『ビリーホリデイ物語』というラジオドラマがあり、そのテーマ曲として使われていました。ビリーの役はたしか加賀まりこ。天国でレスターやベイシーと思い出話に興じるという体の1時間ドラマでしたが、配役はピッタリだと思いましたよ。
サッチモとの吹き込みは思ったほどの成果は出ておらず、ブルースの "My Sweet Hunk O' Trash" では浮かれたルイが思わず4文字語を使ってしまってお蔵入りになったり散々だったようです。またかつてベッシー・スミスが歌った "Gimme a Pigfoot" も押し付けがましい伴奏が災いして、いまひとつの出来だと思います。
選集のほうはさまざまなバージョンで出ていますし、ケン・バーン・コレクションもいいのですが、ここは昔からあるジャケットの一枚を推薦しておきます。
昔から面白いジャケで欲しい欲しいと思っていながらいまだに買っていない一枚です(もういらないんですが)。
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